下鍜冶屋村には、古くから庵寺がありました。今の庵寺は昭和四十五年頃建て替えられたものですが、それまでのものは、広間や庵主の居間もあり、一段高い所には多くの仏像も祀られ、公会堂ができるまでは村の集会場でもありました。
万治2年(1659年)の検地帳によると、下鍜冶屋村には約300㎡の田地を持った永海行人と呼ばれる行人が住んでいたという記録があります。下鍜冶屋村に行屋があったことは、当時のこの地の人々の湯殿山信仰を裏付けるもので、村から行人の姿が消え、今の庵寺の姿に変わっていった背景には、明治になってからの神仏分離令、修験宗廃止などによる注連寺(※)の衰退も大いに関係したと推察されます。 ※注連寺(山形県鶴岡市)は湯殿山表口最古の寺で、天長13年(833年)に弘法大使(空海)により開創されたと伝えられる。
樹高31.0m、周囲5.2m、推定樹齢600年以上とされる大木。その存在感は圧倒的で、境内のシンボルとなっている。
旧米沢街道沿いにあったものを350年以上前に現在の場所に合祀したとされる。南北朝時代の作とみられ、現在は山の神様として地元民から信仰されているという。
上の資料は、安政(1850年代半ば)に玉木新右ェ門が京都の愛染寺より賜ってきたという分祀の証文。愛染寺は明治初年まで京都の伏見稲荷大社の境内に設けられていた本願所で、伏見稲荷大社の分祀に関する業務を担っていたという。
鎌倉時代末期から室町時代中期にかけての作とみられる。観音・勢至菩薩立像と弥陀三尊を構成する。
前社(虚空蔵様の御堂)の本尊で、現在は金蔵寺に安置されている。4月13日・10月13日の祭礼の際には、信者が担いで、金蔵寺から前社まで運んだという。前社は昭和の末頃、積雪によって倒壊した。
梨ノ木元山に祀られた虚空蔵様の奥の院である。長らく所在が不明であったが、昭和の末頃、探し求めていた信者により、高坪山の山中で発見された。写真の祠と鳥居は平成元年に建てられたもので、中には御神体が祀られている。
荒川地区では数少ない南北朝時代の出湯系石仏。花崗岩製で風化が進んでいる。
こちらも南北朝時代の出湯系石仏。花崗岩製。偏担右肩(右肩のみ衣を脱いだ状態)が確認できる。
嘉永四年(1851年)造立とされるが、詳細は不明。全高は3.5mと大きく、昭和35年(1960年)に用水工事に伴って現在の位置に移動した際、塔身の中にお経を墨書した小石が多数確認されたという。
虚空蔵平の付近にある、春木山の人々に大切にされてきたお不動様である。毎年4月15日には「お不動様祭り」が行われるが、その起源などについて知る者は少ない。なお、現在のお堂は平成6年に建替えられたものである。