金屋地区には小字名「馬場」というところがあります。地名の由来は平安時代、八幡太郎義家が蝦夷征伐のおり、当地に滞在して人馬の訓練をしたからであるといわれ、現在は八幡宮がおかれています。ここは「馬場館跡」として県の文化財に指定され、発掘調査の結果から、奥山壮黒川氏に関連する館の可能性が高く、館は主郭と副郭からなり、主郭には土塁と堀がめぐり、郭内からは柱穴・井戸・池などが確認されています。
明治24年(1891年)建立。一間堂四柱造で、前面にベンガラ塗装が施されている堂。周辺には推定樹齢300年の巨大なアカマツが見られる。
自らの命を賭し、村人に悪さをしていた白へびを退治した行者安録の功績を後生に伝えるため建立。現在の安録塚は、昭和5年有志によって建立されたもので、お堂の中には小さな地蔵が安置されている。
大雄寺境内にそびえ立つ、推定樹齢300年以上と言われる大銀杏。
江戸幕府再興のため資金集めをしていた会津浪士が、烏川のあたりで庄屋率いる村人たちに殺される事件があった。これは、非業の死を憐れんだ村人たちにより建立されたものである。
発掘調査の結果から奥山壮黒川氏に関連する館の可能性が高い。館は主郭と副郭からなり、主郭には土塁と堀がめぐり、郭内からは柱穴・井戸・池などが確認されている。現在は八幡宮がおかれている。
県道新潟新発田村上線沿いに建つ、江戸時代の道標。「左は金谷より村上道、右はせきより米沢道」と記されており、この地が古くから交通の要衝として栄えたことがうかがえる。
幕末期の40年間、この地では徳川御三卿の一ツ橋家が陣屋を構えて統治していた。昭和54年に横浜大学の資料室から見つかった「一ツ橋領金屋御陣屋絵図」には、当時の陣屋の様子が事細かに描かれている。
板碑は鎌倉時代におこり、ほぼ中世に限って建立されたもので、仏像をあらわす梵字が刻まれている。
江戸時代、飢饉に苦しむ領民を救うため奔走した伝説の庄屋「志村源太」が、浅草の浅草寺伝法院より受け建立。隣には、願主永信(源太)と掘られた小碑も建てられている。
楕円形の自然礫に彫り込まれたもので、南北朝時代の造立と推定される。
塔の中に、七度唱えると極楽に行くことができると信じられた「宝篋印陀羅尼経」を納めたことから、その名がある。平安時代後期に中国から伝わり、鎌倉時代に入り、石のものが造立されるようになった。
幼くして冥界に行こうとするものを地蔵尊がこの世に送り返してくれるという説話から、延命地蔵は広く人々の信仰を集めた。
享保5年に備前岡山で作成されたという地蔵尊。北前船交易による当時の交流を感じさせる。
玄海上人の塔ともう一基。1700年代に建立。
日本国中に祀る30の神々が1ヶ月(30日)の間、毎日順番に国家と人々を守るという神仏習合思想から生まれた信仰。
馬頭観音が収められた観音堂。その観音像は、かつて海老江の近傍にあった「馬の座村」跡から発掘されたといわれている。
境内には水神碑・金毘羅神社湯殿山碑・月天子碑・水天宮・河内様碑・稲荷様などがあり、水郷海老江にふさわしい神々や石碑が集まっている。
正徳3年から享保14年までの間、上州館林城主・松平清武の2万石の陣屋が置かれていた。