旧貝附集落の南方には城跡があり、居館とそれに近接する標高140mほどの小山の頂上に築かれた山城(要害城館跡)、それからさらに南方の標高254mほどの地点にも山城の跡地(貝附山城館跡)が存在します。昔、貝附城主の弟である鍬江沢城主が石高の多い兄を妬み、だまし討ちにしたという伝説も残っています。
また、貝附には「狭の渡し」と呼ばれた渡河地点があり、古くから戦略上の要衝でもありました。そのため、この地を舞台に、戦国時代には地元阿賀北の勇「本庄繁長」 と戦国最強武将と言われた「上杉謙信」が、幕末から維新にかけては新政府軍と幕府軍が激戦を繰り広げたという記録が残っています。
行基菩薩の作と伝承される木造彫刻座像で、平安時代(11世紀初頭)に一宇という僧が貝附の地に奉祀、開基したとされている。
現在のお堂は羽越水害後の集落移転に伴い移築されたものである。
かつて、左記の大聖不動明王が安置されていた場所に残る大杉群である。
推定樹齢は340年以上と推察され、御神木として信仰の対象とされていたと言われる。背後の沢には滝があり、独特な雰囲気のある空間を形成している。
旧貝附集落にあった金毘羅神社の参道に造られた百三十段を数える石段。1915年に花立の石工、喜三太の手により造りあげられたという。1967年の羽越水害で鳥居は流出、1968年に金毘羅神社は焼失してしまっている。一般に金毘羅は交通(とくに海上交通)の守り神として知られ、多くの信仰を集めている。
石碑には、この地を詠んだとされる古歌「越後なる せばの渡しの 朝嵐昨日も吹いて 今日も吹くなり」が刻まれている。せばの渡しとは、渡河地点のことで、古くからだしの風(東風)の吹くところとして知られていた。
JR東日本管内では珍しいという廃駅。1958年に新設され、1995年に廃止された。
阿弥陀三尊の梵字を縦に配した全国的にも貴重なものであり、さらに地蔵・馬頭の二尊の梵字を添えた五尊混合種子となっている。南北朝時代(14世紀)に造られたとされる。
磧石(かわらいし)に如来像を半肉彫にしたもので、縄文土器の出土も見られる荒島の「割山」と呼ばれるところから出土した。
高さ160㎝ほどの笈(厨子)に安置された木造の十一面観音立像。
貝附の斉藤杢平家から荒島の東岸寺に寄進されたもので、これを背負って旅をしていた行者が置いていったものだという。12世紀頃の作と見られ、19世紀後半以降に兵庫県を経由してきた。